旅立ち2005年08月20日 09:33

4時半起床。6時に浜松駅を出発。7時40分名古屋到着。8時40分名古屋をバスで出発。14時10分徳島駅到着。高田さんと一年ぶりの再会。以前にも書いた記憶があるが、高田さんとは名刑の学習室で平成8年に出会った。当時の名刑には学習室という珍しい制度があって、21時全所一斉に減灯(基本的に真っ暗にはならず廊下から舎房の中が確認できる明るさがあるので消灯とは言えないと思う)するのだが、卓上スタンドを貸与してくれ確か22時ごろまで延灯ができたのだ。ラジオの音もテレビのざわめきもなくなった舎房で、英検などの学習は非常に集中できた。時には勉強をしているふりをして、小説などを読んでいたこともあったが。そんな素晴らしい学習室は全部で5部屋くらいしかなく、勿論3B工場(印刷)からは私一人だけ、日頃から願箋を書きまくって他の懲役から変わり者と言われていた私を、当時の担当さんが推薦してくれたのだった。罷業すると一斉に舎房へ還房(自分の部屋へ帰ること)するのだが、学習室組は別コースで帰る。そこで3A(洋裁)から学習室入りした高田さんと初めて会ったのである。勿論言葉を交わす機会など、そうあるわけがなく、あったとしても一言二言やりとりするくらいのものだったのだが、半年経つうちに、互いのことが次第に判ってきたのだった。ところで学習室に移る以前から、職業訓練に毎回応募していた私なのだが、5回目くらいに情報処理の募集があったので、そんなに応募すると担当職員(各工場を統括している現場の責任者 この人に嫌われるか好かれるかで生活の快適さはかなり違ってくる)に嫌われるから止めといた方が好いという同囚の忠告をものともせず、またもや願箋を提出したのであった。そんな話を職員の目を盗みながら高田さんに話したら、なんと彼も応募したとのこと。なら二人で行けると好いねえなんて言っていた。その後高田さんは担当さんから合格になったと言われたと聞き、嗚呼またもや今回も俺は駄目だったとがっかりしていたところ、平成8年の運動会が終わった翌日、二人そろって松山刑務所へ移送になったのだった。そして暫く同じ部屋になり、それまでの鬱憤を晴らすかのように色んな事柄について話合ったのだった。初めて名刑の廊下で会って以来、なんか惹かれるものが会ったのだが、その勘は間違っておらず、以来9年に渡って付き合いは続いているのである。迎えに来てもらった高田さんの車で徳島市の隣、鳴門市で一番うまい支那そば屋へ連れて行ってもらう。注文してから麦酒で乾杯。その後ご実家に行き、20時頃まで飲酒。そこから近所の焼き鳥屋へ移動し、23時頃戻る。