初走り ― 2006年01月01日 08:48
七時半に初出勤する父なので、七時に家族そろって新年の挨拶。そのためにザイン・ロビーの散歩は中止。十三時半、R700で今度は天竜川の左岸を走ってみる。先月のサイクルスポーツに、長野から天竜川を下って河口まで走った記事がでていたので、先日走った右岸と違って走り易いのかと思ったのだが、何の事はない、変わらなかった。それでも風があまりなかったので、二十キロまでは順調に走る。そして突然ハンガーノック。引き返す道すがらローソンでクランキーチョコを購入し摂取。本日の走行距離四十四キロ。夕方から親戚一同が集まり食事。
お休み ― 2006年01月02日 10:05
五時起床。しかし雲行きが怪しいので、遠州灘まで行かずに近所を廻って帰宅。ザインとロビーはつまらなそう。間もなく降雨。午後から晴れたが本日はお休み。午後、一般参賀に行ってる針谷議長から電話。
未だ初日の出拝めず ― 2006年01月05日 09:24

元旦からずっと朝は曇天続き。今朝も曇り。明朝は四年間借りっ放しだったMTBを、自走で一〇〇キロ先の愛知県瀬戸市まで返しに行き、そのまま宿泊なので翌翌朝も見られない、そしてそのまま家族で一泊旅行へ行くので八日も駄目、残すのは九日、帰京する日だけだ。
とても寒かった ― 2006年01月06日 19:30
四時起床。長い間お借りしていたMTBを、愛知県瀬戸市在住で高校時代の梶田先輩に返却する旅が始まる。おにぎり食べてアミノバリュー飲んで四時五〇分出発。とっても寒いの。三〇分後、とにかく帰りたくなった。絶対に一〇〇キロ先の瀬戸市までは走れない事を実感。手足指先が痺れて痛い。夜明け前の一番気温が低い時間帯に走っている事を後悔した。しかし、バイクを全く知らなかった私に、四年間も催促一つするわけでなく、気持ちよく貸与してくれた梶田先輩のご恩に報いるためにも、本日昼までに参上しなくては。妥協策として、弁天島駅から輪行で豊橋駅まで行き、そこから残り六四キロを自走することに変更。五時四〇分弁天島駅着。この様な事態を想定したわけではないのだが、不慮のトラブルなどに備えて昨日ミソノイサイクルさんで購入した輪行バッグに分解したドバッツを入れる。自販機で暖かいお茶を買い手を温める。六時一八分の大垣行きに乗車。輪行袋は嵩張るが、まだ人が少ないので迷惑になることもなかった。豊橋駅のホームに停車する直前、「只今の気温・-1℃」の表示を目にし、またもや身の危険を感じ、岡崎駅まで輪行することを当然の如く決定。七時六分岡崎駅着。改札を抜けバイクを組み立てる。しかし寒い。寒すぎて走る気にならない。どこかで暖をとる必要があるのだが、周辺は閑散として何もない。取り敢えず近くのローソンに入り、雑誌などを立ち読みしながら体を暖める。しかし取り敢えず座って落ち着きたいと思ったので、二四八号線へ向かう。程なくデニーズがあったので、入店、フレンチトーストを摂取。梶田先輩には、寒さに挫け輪行で岡崎駅まで来た事をメールで連絡、日が昇って気温が上昇するまで待避し、九時に出発することを伝える。九時六分、二四八号線を出発。とにかく寒い。なので車道は走らず歩道をちんたら走行。こんな中でも女子高生は短いスカートで自転車に乗って登校している。愛知県を舐めていた。恐るべし愛知県民。あまりに寒いので都度都度自販機で暖かい飲料を摂取するのだが、今度は尿意を催す事が頻繁になり閉口。それでも十時過ぎには豊田市に入り、一五五号線へ。公園やらジャスコやらで放尿しながらちんたら走る。速度を上げれば上げる程寒くなる。汗など全くかかない。十一時を過ぎて漸くとても寒い→寒いになってきた。それでもときおり見かける只今の気温は一℃。気温一℃ってバイクでの体感温度は何度よ。折角持ってきたヴァームゼリーやウイダーゼリーは体が冷えそうで口にせず。っていうかそんなに漕いでないので体力的にはきつくない。ただ寒い。十二時二十五分、梶田家到着。三時間半の行程。暖かい食事のもてなしを。有り難うございます。バイクを四年前にお借りした以来の訪問。ゆっくりする間もなく、十四時に栄で河井さんと待ち合わせているので、名鉄瀬戸線で栄へ。河井さんの車で熱田神宮へ。周辺はまだまだ混雑している。以前、河井さんにご案内してもらったひつまぶしで有名な蓬莱軒さんの駐車場に車を入れ予約、順番が来るまで参拝することにした。参拝後おみくじを引くと「半吉」。初めて見た。熱田神宮のオリジナルなのだろうか。熱田神宮を出てすぐ隣の蓬莱軒さんへ。ひつまぶしをいただく。美味しかったです。河井さんにまたもやご馳走になりました。名駅まで送って頂き別れる。有り難うございました。
焼津 ― 2006年01月07日 22:02

名古屋は雪が降ってました。始発の東海道線で浜松へ戻る。本日は、父母妹弟家族の計八名で焼津の温泉へ一泊旅行。同じ静岡県と雖も焼津は初めて。駅から車で一〇分程の高台に建つホテルは、部屋の窓から見下ろすと海が真下に見える。左手に富士山、正面が日本平、右手方向が伊豆半島と、素晴らしい眺望。暫くすると富士山が夕陽を浴びてとても美しい。うーむ。焼津は好いぞ。夕食前に入浴。浴室の外が露天風呂になっており、まさしく駿河湾を目の当たりにできる。うーむ。素晴らしい。朝は五時から入浴できるので、日の出を見に入る人が多いらしい。久し振りにでかい風呂に入って上機嫌の私は、すかさず麦酒を摂取。美味い。風呂上がりの麦酒って美味い。仕事で遅れて来た父が到着し、部屋で夕食。これが好いのよ。部屋で食べるって。そして「磯自慢」。これが美味い。利き酒セットという三種類のお酒が入っているのを頼んだのだが、やっぱり磯自慢が一番美味い。料理も美味い。いやいや素晴らしい。十二分に満足し就寝。
呉へ ― 2006年01月08日 22:21
六時起床。浴場へ。この時期、六時五〇分くらいが日の出時間なのだが、水平線に雲がかかっていたため、七時過ぎになってから太陽が昇った。で、朝食後、家族より一足先に出発。静岡駅へ向かう。実は五日に沢口さんのお母様より電話を頂いた。集中治療室に入っていて、担当医から明日明後日が山場だと言われたとのことで、お世話になった方々に、私から御礼を申し上げて下さいと言われた。先月二十九日以降は更新がされていなかったので、気になっていたのだが、まさかそんな状態であるとは。お母様には励ましの言葉をかけ、電話を切った。どうして好いか判らない。徒に事を荒立てるべきではないと思い、私が信頼をおける数人の方々にのみ状況を連絡した。皆一様に絶句した。しかし大挙して呉に行くのも、ご家族の事を考えるとできないしどうするのが好いのかは結論がでなかった。しかし、七日に今度は妹さんからHさんに電話があり、姉がこのような容態である事を、お世話になった方々にお知らせ下さいと言われたとの事だった。Hさんは沢口さんの交友関係に明るく無かった為、私に電話してきたのだった。妹さんがそう仰っているのならと、もう一度五日に電話した方々に連絡を取り、状況を説明し、更に六月に開催した「沢口友美復活祭」に参加してくれた人達にも連絡した。その中で犬塚さんが七日の今日これから呉に行くと言ってくださり、私もこれから焼津へ行くが明日お見舞いに行くことを決め、更に菊ちゃん、Hさんも八日に呉入りする事になった。静岡駅から名古屋へ、名古屋からのぞみに乗り換え広島へ。菊ちゃんと合流し、呉本線で呉に着いたのが、十四時半頃。病院まで歩いて行く。九階の待合室で前日から来ていた犬塚さんと合流。お父様、妹さんをご紹介してもらう。丁度着いた時は検診時だったので、終わるのを待っている間、Hさんも到着。程なく入室の許可が出たので、手を消毒し、マスクをかけ病室へ。確かに顔色は悪そうだったが、そんなに苦しそうではない。一人一人順番に、声をかける。「来たよ 古澤だよ 菊ちゃんも一緒だよ 元気になって東京で会おうね」 反応はなかった。でも時折呼びかけに応える事もあるらしい。体への負担も考え、短い時間で退室。その後新たに塩見さん達三名の方が来られ、計八名になった。待合室で妹さんから暮れから現在までの状況を聞いた。多臓器不全を併発しているとの事だった。効果的な治療ができない為、小康状態を保っているようだが、検査の数値は日に日に悪くなっているらしい。暫くすると、彼女が目を開いたとの事だったので、急いで入室。「みんなで来たよ 絶対治るからね」と言うと、「うーん うーん」と唸る様に反応があった。聞こえていたに違いない。待合室に戻ると鈴木邦男さんももうすぐ到着するらしい。しかし最終の新幹線に乗る為、犬塚さんに駅まで送って頂く。Hさん、菊ちゃんと広島駅からのぞみに乗車。浜松に戻る私と菊ちゃんは、名古屋でHさんと別れ、こだまで帰宅。
ザインとロビー ― 2006年01月09日 19:16

ザインとロビー ― 2006年01月09日 20:15

帰京 ― 2006年01月09日 23:02

昨夜二十二時に浜松駅着。七時起床し、朝食。東京では芽が出ず暮れの六本木で道路に顔面を打ち付けて遊んでいる本多先生ではあるが、浜松ではカンヌ俳優の誉れ高く、古澤家でも下にもおかないもてなしぶりなので、頗る機嫌が好く、父母相手に盛んに映画の話などしているようだ。十時に預けてあるザインとロビーを引き取りに家族と菊ちゃんで出発。帰宅後、十二時に本多号で浜松を出発。途中何度か休憩し、渋滞にも引っかからず十六時半新宿到着。
有難う ― 2006年01月10日 10:13

今朝方沢口友美さんが亡くなられました。八日に呉の病院に見舞いに行ったのが最後になってしまった。ご家族がそばについていらっしゃるので、二回だけ病室内に入り、声をかけた。意識はないのだが、二回目は呼び掛けに応えてくれたように見えた。いや、絶対に届いていたに違いない。苦しい闘病生活になったけれども、安らかにお眠り下さい。いつも笑顔だった沢口友美さん。有難う。忘れないよ。
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